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ようこそHOTEL WELCOMEへ私はジャン・コクトーが大好きです。ここは自身のブログの中からジャン・コクトーに付いての記事を独立させたものです。 内容は、ただコクトーについてのことを綴っているにすぎません。 色々な書物で、映像で、または旅行先で知ったコクトーのことを纏めたものです。総ての方に興味がある内容だとは思いません。 ただ、もし私の記事を読んでコクトーのことを知ってくれる方や好きになってくれる方がいたら、とても嬉しく思います。 コクトーはとても素敵な人生と才能を生きた人でした。 つたない私のナビゲートでどこまで彼に迫っていけるのかは分かりませんが、おつき合い頂けたら嬉しく思います。 2008年 1月 10日 《記事は下から始まります》 #
by jean-cocteau-anje
| 2008-10-11 23:59
HOTEL WELCOME 《3》
このホテル・ウェルカム、コクトーの常宿としてファンの間では有名ですが、実は内装もコクトー一色なのはあまり知られていないのでは無いでしょうか!?
それはまさにヴィルフランシュという小さな港町と、海が大好きだったコクトーの共演です。長々と続きを更新せずにいたという事もありますし、余計な事は言わずに中をご案内致しますね。 まず、ホテルに入ればコクトーのオルフェがモチーフとなったモザイク画がお出迎え。 更にこの場所でコクトーが生活していた事も考えると、本当にファンにはたまりませんね。せっかくなのでコクトーの部屋の前にも行ってみましょうか。 こちらが22号室。コクトーが来客の際に客室として使用していた部屋です。 #
by jean-cocteau-anje
| 2008-05-20 04:15
| コクトーの訪れた土地
困難な自分
コクトーを語るには、“阿片を吸っていたこと”“同姓愛者であったこと”について触れないわけにはいかないのですが、これも実に一筋縄では説明出来ません。
阿片はラディゲが亡くなったという心の傷を癒すというきっかけがあったものの、解毒治療後も度々吸引していましたし、同性愛者であったということに関しても、実はコクトーは生涯何度も女性と恋愛関係にあったことがあります。勿論そこには身体の関係もありコクトーの子供を妊娠した女性も存在するのです。 但しその子供は母親である女性が堕胎してしまうのですが、これに関してはコクトーは10年後の日記にまでこの様に書いています。 1942年3月31日 火曜日 (前略)ナタリーとぼくとの間の子供のことを考えている。生きていればあの子は10歳。生んでおくべきだったのだ(リュシアン・ルロンのもとで育てても)。あのときぼくはひどくおかしくなっていて———しかも盲目だった。ヴィニヨン街でナタリーの妊娠を知ったときのあの喜び。ナタリーが夫に告白してしまい、ルロンが子供を引き取ることを望んだときのぼくの苦悩。彼女が子を堕ろしてしまったときのぼくの怒り。ぼくはあのときサン=マンドリエにいた。彼女はジャン・デボルド宛の手紙で、私生児は産めないし、ジャン・コクトーとロマノフの混血を恐れるといっていた。 母さんが狂わんばかりになり、ナタリーと脅えを共にし、その行為を是認したことをぼくは後で知った。 その子とは離れ離れになってしまったが、もし今その子が手の届くところにいたら、ぼくはどうしているだろうか? ナタリーは今ニューヨークだ。ノエル・カワードの秘書と再婚したのだ。もしあの子が生きていて、ルロンのところにいたならと、その情景や出会いなどを今も想像している。 詩人は孤独に身を捧げるもの。 その後も1944年9月12日の日記にも「Nとの間の息子は、生まれていれば今頃は〜」と日記に書いています。 同性愛者であるという事実を初めて告白したのは『白書』という書籍でした。これは、自分が同姓愛者であるということを母親が知ったら嘆くだろう、という気持ちからコクトーは自分自身の名を出さずに匿名での出版をしました。 かなりフィクションの部分もあるものなのですが、内容はかなり衝撃的です。 思い出せる限り遠い昔、まだ精神が官能を左右しない年頃においてさえ、私は男性を好きだったという形跡がある。 私は常に「強い性」、男性を愛してきた。それを「美しい性」と呼ぶのが正当だと私は思う。稀なものを犯罪とばかりに糾弾し、人の性向を無理にも矯正しようとする社会が、私の災厄の源だった。 中には以下の様な文章もあり、この部分に至っては実際に父親がピストル自殺をしているコクトー自身の思いなのでは、と詮索せずにはいられません。 男色者は男色者にすぐ気づく。ユダヤ人がユダヤ人に気づくように。仮面に隠れていても察しがつくのである。(中略) 私は常々、父は私と非常によく似ているので、この重要な一点において異なっているとは考えられないと思ってきた。恐らく父は自分の性向に気づいていなかったのだろう。だからその坂を下っていくかわりに別の坂を、なぜかくも人生が重荷なのかわからぬままに、苦労して上がっていったのだ。言葉の端々やふるまい、父という人の細々したあれこれから、父の嗜好は私には明らかに思われた。それを存分に花開かせる機会を父はついぞ持たなかったわけだが、もし、自分にそんな嗜好があることを発見していたら、父は仰天しただろう。父の時代には、もっと些細な事でも人は自殺したものである。 父の死についてコクトーはほとんど口にすることはありませんでした。この文章以外には「父は今だったら死ななくていいような理由で自殺したのです。」という言葉も残っているのですが、これ以外は人に話すことは無かったのではないでしょうか!? これら以外にも普通の人間ならば自分の中に備わっている猥雑なもの、勿論コクトーも持ち合わせていました。港町であるヴィルフランシュには船乗りが多かったのですが、そこで船乗り達の性交を覗き見て……なんて事もしていたようです。 また、子供時代のコクトーはどうしようもない劣等生だったと周囲に思わせようとしていましたが、教師に言わせると、実際には「利発な生徒だった」との事ですし、有名になってからも、自分が周囲に注目されるのを意識し過ぎ、「ぼくは“変”なのだろうか?」 と日記に記したりもしています。 ちょっと芝居じみたことが好きなコクトーなのですが、どうしても格好付け切れない、本当に人間らしいともいえる生身の複雑な部分が見えるエピソードがたくさんあるのです。 「おれは阿片吸ってるし、女と寝るし、その上、同性愛だし、これからどうしたらいいだろうか。」 すると、神父は笑ってこう言ったそうです。 「そのままで生きたらいいじゃないか。きみは神様を問題にしなくても、神様はきみを問題にしているよ。」 生きるっていうのは、困難な自分と向き合って行くことなのかも知れませんね。 #
by jean-cocteau-anje
| 2008-01-27 00:30
| コクトーについて
HOTEL WELCOME 《2》
一九二四年、ジャン・コクトオは三十五歳である。紺碧海岸の東端の町ヴィルフランシュに滞在しているあいだ、毎晩港の前へ一人で来て、腰を下ろす習慣がついた。(中略)前の年の十二月十二日、巴里ピッシニ街の病院で、レイモン・ラディゲが死んでから、コクトオの心は不断の危機に在った。もともとこの詩人の精神は、軽業師のような危険な平衡を天性としていたのであるが、はじめて平衡を失しそうな危機に立ち向かったので、軽業師にとっては、このことは直ちに死を意味する。
これは三島 由紀夫の『ラディゲの死』という小説の冒頭。 前記事にも記載しましたが、コクトーはラディゲの死後に阿片に溺れてゆきます。 その阿片に溺れるきっかけになった場所こそ、このホテルの在るヴィルフランシュ。実際にはその経緯は詳しくは分かっていないのですが、コクトーを少年時代から憧れの対象としていた三島 由紀夫は自分の想像も含めて小説という表現方法でこのいきさつを書いています。 阿片に溺れながらコクトーはこのホテル・ウェルカムの部屋で『鳥刺しジャンの神秘』を、そして翌年1925年には『戯曲 オルフェ』を執筆します。更に1957年にはホテル・ウェルカムの斜め前に建っていた、朽ち果ててしまい漁師の網置場になっているサン・ピエール礼拝堂を再建し装飾を手掛け、そして1959年にはホテルの裏手にあるリュー・ド・オブスキュールで映画『オルフェの遺言』の撮影をしています。 ちなみにサン・ピエール礼拝堂はホテルのバルコニーから見ると、こんなに近くにありますよ。 #
by jean-cocteau-anje
| 2008-01-15 01:03
| コクトーの訪れた土地
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